2018-05-08

豊田市美術館で「ビルディング・ロマンス 現代譚(ばなし)を紡ぐ」を見る――春の18きっぷ旅 2018 (1)

見てすぐ書いてアップするつもりだったのに、書きかけのまま気がつけば2ヶ月近くが経過していた自堕落このうえない麩之介です。皆さまいかがお過ごしですか。いまさらですが、ご笑覧いただければさいわいです。

さて、薄曇りの3月某日、わたしは2018年春の青春18きっぷ旅第1回目の旅に出た。今回の目的地は愛知県豊田市。東へ向かうとなれば、朝食はとらずに行くのが定石。8時6分発の新快速でGo!乗り換え一回、10時ちょっとすぎに尾張一宮で下車。今回も先の予定があるので、やはり駅近くの、でも前回行ったのとは違うお店にした。ホットコーヒーを頼んで席で待つ。待っている間、なんだか神妙な気分になるのはなぜだろうと考えていて、はたと思い当たった。ここ、白木(調)の内装、テーブルも白木(調)、テーブルに置かれた一輪挿しは白磁(調)、サイドに金属の輪っかのついた白木(調)の台の上には一対の白木(調)の三宝と、そこはかとない神道(調)の香りが店内に漂っている。これだな。出された水も白磁(調)のコップに入っていた。うむ。正体がわかってすっきりしたところに、モーニングセットが運ばれてきた。


サンドウィッチ、カレー味のペンネ、ゆでたまご、ワッフルとちっさいゼリー(味がない)、これにホットコーヒーで443円也。ああ素晴らしき哉、モーニング文化。

食べたら目的地へ。鶴舞までJRで行って、そこから市営地下鉄に乗り換え、名鉄豊田市駅で下車。お昼時だしテキトーなところに入って食べようと思い、某所へ。どの店も人がいっぱいなので、どこに行っても待たなければならないのなら、せっかくだし名古屋飯を食べようとあるお店の列に加わった。順番を待ちながらしばらく本を読んでいて、ある重大なことに気がついた。「名古屋飯食べる」はいいけど、ここは名古屋じゃない。まあいい。名を呼ばれ、案内された席に着く。テーブルには水の入ったポットが置かれていた。グラスはない。メニューを眺め、きしめんと天むすのセットに決めた。待っていても誰も注文を取りに来ないので呼ぶ。店員さんが去ってから、ああ、グラスを頼めばよかったと後悔したが、まあ料理と一緒に出てくるだろうと待つことにする。待つ。待つ。満席だもんな忙しいんだろうな。待つ。待つ。待つ。待つ。突然水の入ったグラスが目の前に置かれ、「ご注文はお決まりですか?」えっ、今?「あっ、もう頼んでます、ありがとう」あー、水、やっぱり注文取るときに出すんだ。と、間髪入れず「お待たせしましたー」ってこのタイミングで料理来るか。

ここまではわたしも面白がっていたが、ここからは面白くなかったので割愛する。腹を満たし、ここから美術館まで1㎞弱の道をてくてく歩く。ウチの方ではまだ見かけないつくしが生えていてたのしい。途中の喫茶店の名前「物豆奇 本店」って、あれなんて読むんだろう?などとわき見しながら歩いているが、美術館へはほぼまっすぐ行くだけだし、案内表示がかなり頻繁に現れるので迷う気づかいはない。しかし、前に来たときもこんなにいっぱい表示あったっけ?


そうそう、ここでちょっと右に折れて、その先同じ方向に上り坂だったよね、たしか。


ていうか、なんだろう、あそこのブルーのラインは……


えー……


どんだけ……


これ、前に来たときはたぶんなかった(あったら気になってないわけがない)。しかし1本道にこんなに必要?最初のひとつでよくない?わかりにくいやないか!とかいって暴れた人でも出た?うるせぇこれなら文句ねえだろ!ってこと?それとも案内板つくるとき発注ミスでいっぱい納品されてきちゃった?と釈然としないまま坂をのぼり、いよいよ目的地の豊田市美術館へ。東入り口から館内へ入り、エントランスホールへ向かい、チケット売り場を素通りして正面入り口からいったん外に出るという不審な動きをしてしまう。


正面からの写真が撮りたかったのです、ごめんなさい。あらためまして入館、チケットを購入して、いざ鑑賞。

豊田市美術館は企画に興味深いものが多くて個人的に好きな館なのだけど、気軽に行くにはちょっと遠く、貧乏なわたしは18きっぷの時期限定で訪れている。今回の特集展示は「ビルディング・ロマンス 現代譚(ばなし)を紡ぐ」というタイトル。"Building Romance" ということは「物語(romance)をつくりあげる」ということで、20世紀には物語を排する方向で進んできた美術が、ここへきてなにをしてくれるのか興味津々なのだ。

最初の展示室は志賀理江子の写真作品。まず「立ったまま眠っている」と題された一人の男性の写真。そのつぎは、「予感と夢」。金属の壁に囲まれた狭い場所で、互いの体を枕にするように眠るたくさんの人々の写真の、大きなファブリックに風合いを変えてプリントされたもの5点が、ピンと張った状態やしわを寄せた状態で展示されていて、なかの1点には次の展示室への通路が開いている。床にはくしゃくしゃと起伏のある状態でおかれている毛布にそのプリントがかけてある。制作の意図からはずれている感想かもしれないが、狭い場所で重なり合うように眠りこける人々の姿やくしゃくしゃの毛布に、避難生活を強いられる人たちの姿を見てしまった。金属の壁に反射する光を受けているためか、顔色が悪く疲れて見える。そういえば「立ったまま眠る」のも疲れ切っているからではないか、なんて思ってしまった。

つぎの展示室は危口統之と悪魔のしるし。空間に入らなさそうでギリギリ入るように設計されたオブジェクトを搬入・設置するパフォーマンス「搬入プロジェクト」は実際に見てみたかった。あと、ある方の記事で知って楽しみにしていた「メタル大学」(ハードロックミュージシャンの系統樹)は、期待通り面白かった。しかし小さな文字で詳細に描かれた系図が展示してあるのが、床からほんの少し高いだけの位置だったので、見るのが苦痛になってきて全部見ていない。複製をミュージアムショップで売ればいいのにと思っている人は多いのではないか。わたしは買う。

ここで次の展示室との境のカーテンに気づかず、入り口にもどってきてしまったわたし。係の方に教えていただき、引き返す。阿呆である。

カーテンを抜けると光がはじけていた。文字通り。アピチャッポン・ウィーラセタクンによる映像作品「花火」は、暗闇のなかに置かれた動物などの石像や鉢植え、その間を歩く男性や松葉杖をついた女性の姿が、数秒花火の光に照らし出され、消えていく状景がスクリーンに映し出されるが、その光は壁やピカピカにワックスをかけられた床に反射して、展示室全体が作品空間となっている。鳴り響いているのは花火のはじける音なのだけど、女性が松葉杖をついていたこともあってか、一瞬自動小銃の連射音に聞こえてしまってゾクっとした。色とりどりの花火の光は夢のように美しかったというのに。終盤、恋人同士らしいその男女の寄り添う姿が花火の光に照らされて消え、つぎの花火で浮かび上がるのは寄り添う骸骨の石像であること、またこの後コレクション展で、タイ国軍により苛烈な弾圧を受けた村で撮影された、同じ作者の短い映像作品「ブンミおじさんへの手紙」が上映されていたこともあって、その連想はあながち間違いではないのかもしれないと思った。もちろんこの二者に、共通性という「物語」を見てしまっていいものかどうかは知らない。

そのつぎも映像作品。といっても画像としては、スクリーンに音声波形と、その音声につけられた英語字幕が表示されるだけ。作品の主役は音声なのだ。スーザン・ヒラーの  "Lost and Found" という作品。入室してしばらく見ていてタイトルの意味に気づいた。それは、滅びかけている、あるいはいちど滅びて復元された言語の音声資料で構成されているのだった。話されている内容は、アルファベットの歌(付される記号がその母音なり子音なりにどんな変化を与えているのか観察しながら聞くと面白かった)や日常のおしゃべり、その言語についてなど様々で、個人的に興味深かったのは、「コンピューター」をその言語でなんというか、とか、ネイティブアメリカン(何語かは失念)の「彼らが "Settlement Day" (入植記念日)として祝う日は、自分たちにとっては "Invasion Day" (侵入の日)である」というのだけど、彼らの言語でも "Invasion Day" といっていたこと、カタルーニャ語の数字は、やはりスペイン語に近いのだということ、ラジオではネイティブアメリカン向けにその言語で天気予報をしていること、なんかかな。しかし滅びた言語の復元とはすごい。200年前に滅びたものなど、発音はどうやって復元したのだろう。どこかになんらかの形で記録が残っていたのだろうけど、失われた音もあるのかもしれない。

展示の最後は、飴屋法水「神の左手、悪魔の右手」。ん、楳図かずお?と思ったが関連性はよくわからない、というかわたしはタイトルを知っているだけでマンガを読んでいないので、わかるはずがない。フレームだけになった車(トヨタ車!)が吊られていたり、落書きのある壊れかけの壁があったり、本来は閉じられているはずの搬出入口にも展示品が置かれていたり、ぱっと見た印象は「夢」だったんだけど、どうなんだろ。

企画展を見終わり、コレクション展へ。関連展示「ビルディング・ロマンス―盲目と洞察」では、ソフィ・カル「盲目の人々」がよかった。生まれつき盲目の人々に「あなたにとって美とは何か」と問い、返ってきた答とそれに関連する写真を、その人々の肖像とともに展示するというもの。"Vision" を持たない人々が言葉で表現した "image" を "visual" に再構成するとは。一番最初に展示されていた「私が見たもっとも美しいものは海です。視界の果てまで広がる海です」という言葉にまず衝撃を受けた。生まれつき視界を持たない人の「視界」は、目を開けばものが見えるわたしの「視界」と同じものなのか。いや、そもそも目の見える人の視界はみんな同じなのか。感覚に属する事柄は比較して確かめるすべがないのに、どうして同じだと思い込んでいられるのか。もしかしたら違うかもしれないと気づいても、自分にどう見えているかは説明できない。仮にできたとしても、自分の意図したとおりに正確に受け取られるかは不明だ。受け取る側は、自分の視覚を参照して想像するしかないからだ。感覚は徹頭徹尾、個に属するしかないものだ。とかなんとか考えつつ、最初の最初からコミュニケーションに備わっている本質的な困難をぶっこんでくれているので、非常にうれしくなってしまった。これと小泉明朗の映像作品「ディフェクト・イン・ビジョン」の「物語性への目配り」とか、このへんのことはまたいずれ書きたいと思う。

企画展示とその関連展示を通してみた印象としては、人は世界を、個の感覚、言葉、記憶(これらは本質的に曖昧だが、それしか頼りにできるものがないものだ)が網の目のように入り組んだ状態で成り立っているようにしか見ることができない、というか、どうしてもそこに物語を読み取るようになっているということを意識させる展示になっていたように思う。

コレクション展ではもうひとつ、今しか見られないゴージャスな展示をやっていた。「愛知県美術館×豊田市美術館」と題し、現在改修のため休館中の愛知県美術館から預かっている所蔵品と豊田市美術館の所蔵品を2点組で展示するというもの。これが素晴らしく面白かった。太っ腹なことに撮影OKだったので、ひとつご紹介。


フランシス・ベーコン「スフィンクス」(豊田市美蔵)とエドヴァルト・ムンク「イプセン『幽霊』からの一場面」(愛知県美蔵)。

たいへん満足して館を出た。


敷地内では桜がもう咲いてた。

さて帰るか、と駅に向かっててくてく歩いていたら、またしても目に入ってきた喫茶店の看板「物豆奇」……あっ、これ「ものずき」って読むのでは。うーん、わかってスッキリというよりは、なんか微妙にイラっと来た。なんだろうこの感覚は。ひとついえることは、自分はここの店主とはたぶんソリが合わないだろうということだ。

豊田市駅に着いてみて唖然とした。なにがあったのかは知らないが、人の数が異常。改札あたりは激混みで、出る人入る人が入り乱れ、なぜか精算機(?)のあたりに長蛇の列ができている。なんとか切符を買い、人をかき分けて改札を抜けたが、乗った電車は空いていて拍子抜け。なんだったんだろう。

鶴舞でJRに乗り換え、電車の中で夕食をどうするか考える。名古屋で食べるか。いや、この前、岐阜のうどん屋さんで寒さのあまり味噌煮込みを食べたけど、そこの名物の釜揚げを食べてないから、それでもいいか。岐阜の郷土料理が食べられる店というのも、あのあと調べて見つけたし、とりあえず岐阜行こう、と金山で東海道線に乗り換える。しかし来た電車は米原行きだった。こうなると、もう疲れてるから米原まで乗っていようという気に。もういいや、滋賀県でなんか食べよう。そうだ彦根でちゃんぽん食べよう。

米原からひと駅の彦根で下車。駅からすぐの近江ちゃんぽんのお店へ。久しぶりに来た。店員さんのポロシャツの背中に「WE LOVE CHANPON!」と書かれているのがかなりいいけど、これ前からだっけ?品数も前より増えている気がするな。しかしわたしは基本の近江ちゃんぽんと半炒飯を注文。待つことしばし。


これこれ。炒飯は後から来るそうで。いただきます。まずはスープをひとくち。あっつ!やけどしそう!でも麺類はこうでないとね。お酢をひと回しかけて食べる。美味い。おっ、炒飯来た!もちろんあつあつ!昼のあれはなんだったのだろう。あれだけ待たされたのだから、きっとえび天は揚げたてあつあつだろうと思いきや、天ぷらもごはんもなまぬるかったのだが。ついでにいうときしめんもなまぬるかった。まさかとは思うが、できてから供されるまでしばらく放置されてでもいたのだろうか。ああ、書くつもりはなかったのに、近江ちゃんぽんが美味かったもので、つい。うーん、なんだか豊田市美に行くときは、昼食に恵まれないことが多い気がする( → 「『フランシス・ベーコン展』(前)――観る前に体験するの巻」 )、ってまあ二回目だけど。しかし一日の締めくくりの食べものが美味ければ、その日はまるごといい日になってしまう安上がりなわたくし、このうえなくイイキブンで帰宅したのであった。

2 件のコメント:

  1. 記事を読みながら思い出しましたが、「搬入プロジェクト」のあの赤い搬入物、自分は最初椅子と勘違いして、思いっきり作品の上に座ってしまいました 笑。
    上に本が置かれていて、前にディスプレイがあるので、つい腰かけてしまいました(笑)が、係員さんには全く注意されませんでした。触れても良かったのかな。
    「搬入プロジェクト」は解説のチラシが面白かったです。
    「メタル大学」は疲労しますが見続けてしまいました。あれは高い位置に表示してほしかった。

    ソフィ・カルの作品と、コミュニケーションの困難性との関連、なるほどと思いました。
    コミュニケーションも作品鑑賞も、常に意図はズレながら伝わっていくもの。
    (そこがまたコミュニケーションや作品鑑賞の面白いところでもありますが。)

    >待っていても誰も注文を取りに来ないので呼ぶ
    そう!これは自分の入った店も同じでした。
    自分の入ったお店では、他のお客さんは席に着くと手をあげていました。
    単に声で呼ぶだけでは、店員さんは返事はしますが来てくれず、手をあげると来てくれました。
    豊田市では「手をあげる」のがマナーなのかな・・・?

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    1. れぽれろさん、コメントありがとうございます。

      お座りになりましたか(笑)。自由度の高い展示だったようですね。ひょっとしたら、展示されていた本なども、手に取って見てもよかったのかもしれませんね。
      ほんとに、「メタル大学」はなんであんなところに……

      ソフィ・カルの作品は、写真の美しさも素晴らしかったですが、それをただぼーっと見ることを許さず、観る者に考えることを促す力の凄さに圧倒されました。

      >コミュニケーションも作品鑑賞も、常に意図はズレながら伝わっていくもの。
      >(そこがまたコミュニケーションや作品鑑賞の面白いところでもありますが。)

      ほんとうにそうですね。ズレの発生は避けることができないものですが、それが思いもよらない価値につながっていくことがあるものです。むしろズレがなければ、そこからなにも生まれようがないというか。

      >そう!これは自分の入った店も同じでした。

      そうなのですね! 「手を上げる」には気づかなかったですが、たぶんわたしも気づいてもらうために軽く手を上げていたと思います。ここでーす、って(笑)。期せずしてローカルルール(?)に合致していたのか……難しいものです(笑)。

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